一生HelloWorld

~無骨で狡猾な豚骨~

らーめんの味が分からない

東京には至るところにらーめん屋が立ち並ぶ。親の顔より見たかも知れない。

東京だけでなく地方でもだ。フランスの美の結晶であるルーブル美術館の前でも振る舞われている。日本だけでなく、世界中でもラーメンは食されている世界的食文化である。らーめんがこれほど普及しているのは、それ相応の需要の裏付けに他ならない。

つまりらーめんは世界中の人々に愛され、好まれ、求められ続けている。

 

 

しかし僕にはらーめんの良し悪しが分からない。

井戸端で近隣のらーめん店を格付けする会話に僕はついていけない。なぜなら、らーめんの良し悪しが分からないから。口を開けばすべてが薄っぺらく知ったかぶりをした発言になってしまう。二郎系、家系、大勝軒系。どれも横一列に思えてしまうなんともつまらない感覚を持っている。我ながらなんと哀れだろと思う。

 

らーめんの美味しさは青天井ではない。

どれも同じだけ美味しく、同じだけ美味しくない。らーめんの美味しさに限界を感じ、『らーめん』という檻の中で競い合う味に上限と下限を感じてしまっている。その檻の中で美味しさを競わせることに限りない抵抗さえ感じてしまっている。らーめん自体が特別美味しいとは思えないし、らーめんを好んで食べたいとも思えない。

『どこそこのらーめんは豚骨なのに嫌な臭みがなく、対して綺麗すぎず正面から応えるらーめんだ』『ゴマベースのスープに自家製の縮れ麺がよく絡み、辛子ネギの食感がバランスを支えている』

こんな本心から絞られた感想を評価する会話、僕にだってしたいと思える時があるのだ。

 

らーめんの味が分からない僕がいつもどうしているのか。

そうした周り話しを聞いて覚えてオウムの様にペラペラと喋るのだ。別にらーめんハラスメントだなどと叫ぶつもりもない。らーめんは人と人を繋ぐことだってある素晴らしい文化だし尊重もする。でも、らーめんが支配する局所的な食文化の世界では、そうやって周囲と協調して生き延びるしかないのだ。それはこれからも変わらず、そうやってて生きながらえ続けるだろう。きっと今後も。